児童文学書出身(?)でありながら、文頭いきなり「西の魔女が死んだ」とえらく衝撃的な一文で始まる一冊。
ちなみにこれを読んでいると次男が「それ、いきなり西の…って始まるやろ」と。
「読んだん?」と聞くと「学校の図書館にあったから」とのこと。
確かに主人公の「まい」は中1でいきなり不登校になってしまい、おばあちゃん=西の魔女のところで「魔女修行」することによって学校に復帰し中3で魔女の死に遭遇する。という流れから「児童書」扱いなのだろうけれど、はっきり言ってこれは成人図書でも十分通用する。

本文内でのおばあちゃんの家での暮らしは「懐かしさ」を感じさせるぐらい「昔の生き方、生活習慣」がたっぷり盛り込まれており、日本の話ではなく、イギリスの片田舎に居るかのような錯覚さえ覚えるほど「カントリー生活」である。ワイルドストロベリーを摘んで、ジャムを作り、足で踏んで洗濯をしたものをラベンダーの枝の上に置くことにより香りがしみこみ、ぐっすり眠れる=リネンウオーターそのものだし、生みたての卵を朝取りに行って朝食に食べる。
今の生活にそんな「余裕やゆとり」があるだろうか?
ただ、まいのお母さんのようにおばあちゃんの生き方を「古い」と嫌う人もいるだろう。
でも、まいが「心のリハビリ」を必要とした根底にはそんな「昔ながらの生活=規則正しく寝起きし、自分で時間割を作って家事も生活の一部とする」というのは本当に大切だと思う。
おばあちゃんには色々な話もできる=話を聞いてくれるゆとりが相手にもある、ってことではないだろうか?

またおばあちゃんがイギリス人ってことも重要な気がする。これがコテコテの純粋ジャパニーズばあちゃんだったら不登校になった孫を「快く受け入れる」ことなんて絶対無理でむしろ「どうして他の人と仲良くできないのよ?」と攻め立てそうだから。
これが、日本人の「村意識」で他人を傷つける根底にあるからではないだろうか?
一方、イギリス人だと「個人主義」があるので「その場にそぐわないと思うのであれば、無理にそこにとどまらなくてよい」とさりげなくアドバイスしている。
「その時々で決めたらどうですか。自分が楽に生きられる場所を求めたからと言って、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、ハスの花は空中では咲かない。白クマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、誰が白クマを責めますか」


そして、「死」も疑問の一つとして心に芽生えるとお茶目なウイットで返してくれる。
「人は死んだらどうなるの」
それを聞いておばあちゃんは声にならない唸り声のようなものを出した。それからため息と共に、
「分かりません。実を言うと、死んだことがないので」

ああ、この人好きだな、って思った。
正直に、中学生の孫の質問に丁寧に答えようとしている。
これが純粋ジャパニーズだったら「何、バカなこと言ってんの。そんなこと考えるだけ、無駄、無駄」とか言いそうで。
これは子どもだけでなく大人にも老人にも「余裕」がないからこんな夢や想像力のない答えばかりが行きかっている世の中になっているのかも。

ただ、物語はちょっとしたことで仲直りできないまま、まいとおばあちゃんは離れてしまう。そして再会の時が「死んだ」時でもある。実感として受け入れられないまま、茫然自失状態にある時におばあちゃんからの「約束」それも愛に満ちた約束を見つける。
この部分は本当に良いと思う。年食った私でも「ああそうか」って感じられるほどに。
この部分に多くの子どもに色々な「思い」を感じて欲しいと思う。
ラスト、本当に良かった。

コメント