むちゃむちゃ、興味深く読みました。
というか、自分の「神戸人」としてのルーツを教えていただいたような…

ちなみに著者は大阪人だとか。
京都人を表して
京都人のイケズはもっとじめじめと陰湿なのである。人間の行動に例えれば、顔はにこやかにほほ笑みつつ、一方、腹の中では舌を出し、ついでに相手のつま先を踏んづけているようなものである。
京都人はとてつもなく都会人である。
逆な言い方をすれば、都会人の原点は京都人にある、と言いきることもできる。田舎の村社会とは対極の位置にあるのだ。都会で暮らすには最低限のルールが必要で、それは他人の領域に踏み込まないことである。
この場合の領域とは、個人の私生活だけに限らず、その意識から地域社会にまで及ぶ。


そう、怖いとされるイケズは何の事ない、「不作法者」を排除する手段でもあったのか!!
ちなみによそ者は京風の決めごとをわきまえてさえいれば、親切にしてもらえるのだそう。(バスで親切にしてもらったのは、これが理由かあ~)

共感できる部分として
大阪人のイラチな性格は京都人のイケズと双璧をなすと言えよう。
神戸人が所用で20分の距離の大阪へ行き、用事を済ませて神戸へ帰ってくると「なんと神戸はゆったりしているのだろう」と心底ほっとするそうである。とにかく、大阪のイライラセカセカした雰囲気に揉まれると、神経が根本から疲れ、ひたすら「ここから早く脱出したい」と思うそうだ。

めっちゃ、思う!!電車でも車でも大阪方面から帰宅する時、東灘に近くなると山が迫って来て、海も開けて来ると「ああ、帰ってきたんだ~~~~~~」とものすご~~~くそこで、一気に緊張の糸がほぐれる。「ここからはゆっくり走っていいよ~~海見えるし~~」って感じ。
旦那が足を怪我して、大阪の病院に担ぎ込まれた時なんか、もうその時はどうやって通ったか記憶にないほどだけど、毎日くたくたに神経つこたし、大阪の友人と会った時も歩くスピードについて行けなくて、帰宅後寝込んだし。
「げんきやなあ~~」
「そうか?学生時代は、すずめちゃんの方が、歩くの早かったのに~それとショッピングもみるだけでたのしいで~」
「無理。無理です。こんな人、多いとこ。しんどすぎ~」
ってな会話もしたっけ。人をよけて歩くのが精いっぱい。

最近はさっぱり言われなくなったけど、学生時代よく「京都の人??」とよく聞かれた。
なんで京都なんだろう??と不思議に思っていたら結婚後ある本で私が住んでいた地域は「没落した平家が隠里として住んでいた。よって、一部の地域に言語が残っている」と。あ、そうなん??でも、納得。

自分の他人に興味を持たないという性格も
神戸は人種民族の坩堝である。戦前から様々な国の人が住み、人種のわだかまりもなく、フレンドリーに暮らしてきた。だから、人種的な偏見や差別区別の意識もなく、真の意味で国際都市である。外国人と上手く付き合うには、必要以上に他人の私的領域に踏み込まないのがコツであるが、神戸人はそのあたりのコツも心得ている。反面、それが神戸と言う町に感じる、淡白さにもつながるのだろう。

「必要以上に踏み込まない」これが染みついているからこそ、自分が「踏み込まれることが多々ある」今の現状にどうしても納得&理解しがたいのだろう。
そう考えると、「踏み込む人」って、「田舎」な人だな、と。少なくとも神戸より西が出身地だな。
田舎もんだから、他人との距離を測る「知恵&習慣」が無いんだろう、と切って捨てるのが一番!

それと最近テレビを見ない。それは「低脳な芸人ばっかり出ているテレビを見ても面白くない」のが理由。
その理由も、ちゃんと解明してあった。
目下テレビで売れているヨシモトを主とした関西系の芸人たちに、純粋な船場言葉など喋れる人間は皆無で、ほとんどの視聴者が大阪弁と信じ込んでいるのは、彼らが撒き散らす、正体不明、無国籍風の関西なまりなのだから。またこの無国籍風の関西なまりは、不思議なほどに、下品なイントネーションとニュアンスに富んでいる。
なぜそう聞こえるのかの理由の第一は、発音の汚さ、発音時の口の開け方のあいまいさにある。


そうか、あの、必要以上に「下品」な雰囲気がどうしても受け入れられないのが原因か。すっきりした。
『お笑い』が葵の御紋の印籠のごとく通用するのは大阪だけで、隣の京都や神戸となると少し様相が異なってくる。
京都人にヨシモト的な笑いについてどう思うかと聞くと「下品どすな」とか「20代までの人はともかくとして、30代、それも家庭人になったら途端に背を向けます」と言った答えが戻ってくる。
神戸人もしかりで「まあ、どっちでもよろしいですけど、品がないですなあ」とか「たまにテレビで観ますけど、ちょっとでよろしいわ」と素っ気ない。
京都人によってははっきりと「背筋が寒うなりますわ」とさえ言う人がいる。


極めつけは、常々私はネズミーランド 大嫌いと言っているけどその理由が
京都はテーマパークの元祖 
近頃盛況なのがテーマパークと称する大型遊園地である。当然全体の造りは映画のセット風であり、書き割り風である。言いかえれば人工美の極致だ。
確かに子どもも大人も楽しかろう。けれどそれも一時のことで、一週間と通い続ける事が出来るだろうか。
子どもならがそれでも喜ぶかもしれないが、大人はよほど頭の中が風変りで無い限り、飽きが来るだろう。
流行りのテーマパークと直に比べるわけにいかないが、少し見方を変えて眺めると、京都は歴史と雅をテーマにした
大人の為の壮大なテーマパークと言える。
もっとも、満艦飾の人工美が大好きで、歴史や風流に興味はないと言う人には無縁の話だが。


そうか、あのネズミーランド全体を覆っている 偽物の建物とその中で働いている人間の偽物の笑顔 にウソ臭さを思いっきり感じて、嫌悪感 として捉えていたと言うことか。納得。
独身時代にイギリス&フランスで ホンマもんの城を見てきた者にとってテーマパークにある
外国にありそうな、城風な建物に美しさを感じるわけがない。
なんだ、この、張りぼてってなもんだったのだろう。
ホンマもんがありがたいことにゴロゴロと店先に並べられていて、買わなくても自然とそれらを目にすることによって審美眼は養われていたのである。
神戸に生まれ、育つ事が出来た事はなんという財産!

今、住んでいる街はそういう意味で「ほんまもん」がゼロに近い。これじゃ、目を養う機会もない。その証拠として神戸にもここにも同じチェーンショップがあったとしてもディスプレイに大きな差が出ており、「え?ここにこのショップ入っていたの?」と驚く事数回。
定員もスマートさが無いから、自然神戸で買い物をすることになる。「いや、アンタのセンスより、自分のセンスを信じるわ」ってなもんだろう。
着こなしにセンスが無いから、簡単に言えばユニク×の服をこの地では「そのまんま着る」のに対してこれが神戸だったら小物で変化をつける、異素材を合わせるなど、変化をつけてなんぼ。今の土地だと、変化を付けたら「あの人、変」とばかりにものすご~~い注目を浴びてしまう。
ので、自然「おしゃれ」と言うものから遠ざかるのである。もっと好きなように着たいよ~

それにしても、自分がどこに生まれて、どんな土地で育ったかによって全く違う感性を持って生きて行くことになるんだなあ…とつくづく思い知らされる。
やっぱり高くても「いいもの」を小さな頃から目にしているのはひじょ~~~~~~~~~~~~~~~~~に大切なことである。
安いから、簡単だからと言ったものばかりを目にし、口にしていたら大人になって「軽い人間」にしかならない。
直感でも「これが、いい!」と判断できる「基準」を持つべきである。
…と、自分の子どもに「ほんまもん」を目にする機会が無い現状としてどうすればいいのか…

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