昭和31年生れのスタイリストが書いた本
単純計算で54~55歳、と言う事は林真理子、槇村さとると同じ50代。本書の中でも
私は成城学園の隣町で育ち、母の親友の住む自由が丘に良く遊びに行った

と言う事は裏を返せば「私は東京でもお金持ちの住む場所で育った東京育ち」と言う事を暗に言いたいのだろう。
しかし、しかしである。
この人、下品!

なぜならP54でいきなり
いかにもノリの悪そうな  デブ がサイズだけを理由に着ているラッパースタイルは、ノリの悪さをかえって目立たせるだけ。


一瞬、目を疑いましたね。
この手の本でストレートに デブ
読み手の方が「え?????」と焦るような用語使い。
それどころかP135から始まる
第12章 「デブ」のふたつの分かれ道 ときたもんだ。見事に「デブ」を分析している章で
見出し的には
やたらかわいい服が好き
小花もレースも倍になる
売り場面積は「9対1」
おしゃれメガネのデブ
フリフリよりブリブリを

著者いわく
「デブは何を着ればいいのか?」に対するこたえになっただろうか。
とのことだが
「私、あんた、嫌い」とだけ答えておこう。
「デブ」と書かずに「太め」「ぽっちゃり」「ふくよかな」別の言葉も沢山あるであろうに。
服のセンスはあるのかもしれないが、言葉のセンスはお持ちではないようで。思いやりも無いってことですね。

ただ、林真理子も「ナチュラルストッキングの女に負けた、と感じる」と書いてあったのと同じように第11章
ナチュラルストッキングを拒む女たち とどうも50代は
タイツVSナチュラルストッキングにどうも思い入れがあるらしい。

第10章 ダライラマの靴の記憶に私が『スタイルノート』で書いたのと同様な事が載っていた。
「本物のおしゃれさんがどうかの見極めは、靴にあり」という説が揺らぐことはない。
ユーミンの曲「DESTINY」に「どうしてなっの~、今日に限って、やっすいサンダルはいってた~」と言う歌詞がある。普段はちゃんとおしゃれしている私なのに、たまたま気を抜いた時に限って好きな人と出くわしてしまった。
この短いフレーズに込められた嘆きと悔しさは多くの女性が共感するところだ。

なんという偶然かもしれないけど、やっぱりこの曲のこのフレーズって「ありがち」なんだろうなあ…
みんなが「しまった!」と感じる部分。

おしゃれはくつから。
「足元を見る」とはよく言ったもの。
今の自分をキチンと分析し、受け入れ、背伸びも無理もせずに自分らしい個性を大切に自己表現としての「服」を選びたいものですね。

ちなみに今の自分はもう二度とナチュラルストッキングを履く元気も気力もなく、靴下で十分でございます。
これがまぎれもない現実。

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