乳と卵(ちちとらん) 川上未映子著
2013年8月30日 読書
先日読んだ「母と娘」の関係について書かれた本の中に紹介されていた一冊。
大阪弁で書かれているせいか、読んでいて「なんか不思議なリズムのある文体だなあ…」と。さらに読んでいくと「ああ、何のリズムかわかった!古典の教科書みたいなんだ!」と。
例えば39歳になる姉の妹が主人公なので35歳から38歳の設定として
その若さで会話に
そこがなんか古典の教科書の様な錯覚になってしまった。
さて、本作にて娘の緑子はなぜか口がきけなくなり(きかなくなり)筆談で会話するもののどうも「自分の意志とは関係なく自分の体が 女に変化していくことに戸惑っている」のと
39歳の母の巻子が「東京で豊乳手術する!!!!!」と張り切っていることに対しても嫌悪感を持っている、そんな母娘をぼ~~と傍観している主人公。
どうして娘が口を利かなくなったのか心配しない、むしろ自分の豊乳手術の事しか関心無い母と言う「ああ…」となんか中学生の娘を気の毒に思ってしまう自分がいる。
これまた唯川さんの本の『ティディスの逆鱗』にて全身整形の話で
独身女は体の一部分から変化させていき、次第に次はここ、次はここと
全部触らないと気が済まなくなる(=精神的に破たんしている)のに対して
既婚+子持ちの女は「結婚前の自分の体に戻りたい」=胸を復元と言う
手術を希望するところと似ているな、と思った。
結婚して(しなくても)子供が出来て、乳を飲ませ終わったらどんなに形のいいおっぱいを持っていた女もだらりと垂れた情けない乳を持つようになる。
そこでなぜか「昔の自分」の象徴として「乳を元に戻したい」となぜか
「乳」にこだわるようのである。
その一方で「乳」にこだわる母を横目に娘は
母が「乳の再生」にこだわることは娘の存在を否定することになる。
「私、生まれてきてよかったの?」と娘としてはそんな絶望的な気持ちになるわなあ…
そしてもう一遍収録された『あなたたちの恋愛は瀕死』
一言で言って「病んだ女の話」と切り捨てていいものか?
例えば独身30手前女が生まれて一度も彼氏と言うか恋人と言うか
セックスする相手がいなかった場合、「セックスってどうよ?」と
ものすご~~~い興味を持ったとする。
「それってどうなん??」
他の友人はまるで食事するかのように「さらり」と経験してしまい
取り残された自分は聞くに聞けない立場になってしまっている。
私の場合運よく(?)経験できたのでセックスについて悩まなくて良かったけど
もし、今の年まで経験できなかったらこの主人公の様に「危ない女」に
なっていたかも…
セックスと言う行為が当たり前(?)と言うか体験したものにとっては
どうってことないんだけど、「それ、未経験ですから!」って出来事に
ただならぬ興味を持つのは当然なんだけど、事が事だけになんか「病的」
って感じてしまった。
興味がある。追求したい!追求しすぎたら「危ない女」になっちゃった。
けど、一つ間違えたら明日は我が身、ってとこが切って捨てにくい感じ。
この作家さん、芥川賞を『乳と卵』で受賞しているようですが、
正直、芥川賞受賞作品ってどれも不可解。
直木賞ならまだ起承転結があるからましなんだけど、
芥川賞って教科書に「これはどういう気持ちでしょう?」と問題が
記載されてこそ「その部分」を必死になって探し出す行為を経て
なんとなく理解ができるんでしょうが…
受賞作品より芥川龍之介の作品の方がよっぽど面白くまた理解できると思うのですが…
選考基準は一体、何???????
私の場合は自分自身が母とうまく行ってない、と言う問題定義(?)
があるのでそれなりに興味を持って読んだけど、親子関係がうまく行っている人には「なんのこっちゃ。ただの会話の垂れ流し」になるんだろうなあ…
大阪弁で書かれているせいか、読んでいて「なんか不思議なリズムのある文体だなあ…」と。さらに読んでいくと「ああ、何のリズムかわかった!古典の教科書みたいなんだ!」と。
例えば39歳になる姉の妹が主人公なので35歳から38歳の設定として
その若さで会話に
「や、黒くはない」「や、普通って言うのが…」と「や、…」って会話するかなあ??
そこがなんか古典の教科書の様な錯覚になってしまった。
さて、本作にて娘の緑子はなぜか口がきけなくなり(きかなくなり)筆談で会話するもののどうも「自分の意志とは関係なく自分の体が 女に変化していくことに戸惑っている」のと
39歳の母の巻子が「東京で豊乳手術する!!!!!」と張り切っていることに対しても嫌悪感を持っている、そんな母娘をぼ~~と傍観している主人公。
どうして娘が口を利かなくなったのか心配しない、むしろ自分の豊乳手術の事しか関心無い母と言う「ああ…」となんか中学生の娘を気の毒に思ってしまう自分がいる。
これまた唯川さんの本の『ティディスの逆鱗』にて全身整形の話で
独身女は体の一部分から変化させていき、次第に次はここ、次はここと
全部触らないと気が済まなくなる(=精神的に破たんしている)のに対して
既婚+子持ちの女は「結婚前の自分の体に戻りたい」=胸を復元と言う
手術を希望するところと似ているな、と思った。
結婚して(しなくても)子供が出来て、乳を飲ませ終わったらどんなに形のいいおっぱいを持っていた女もだらりと垂れた情けない乳を持つようになる。
そこでなぜか「昔の自分」の象徴として「乳を元に戻したい」となぜか
「乳」にこだわるようのである。
その一方で「乳」にこだわる母を横目に娘は
あたしに飲ませてなくなった母乳んとこに、
ちゃうもん切って入れてもっかいそれをふくらますんか、
産む前に戻すってことなんか、ほんだら生まなんだらよかったやん、
お母さんの人生は、あたしを生まなんだらよかったやんか、
みんなが生まれてこんかったら、何も問題は無いように思える、
嬉しいも悲しいも、何もかもが元から無いのだもの。
母が「乳の再生」にこだわることは娘の存在を否定することになる。
「私、生まれてきてよかったの?」と娘としてはそんな絶望的な気持ちになるわなあ…
そしてもう一遍収録された『あなたたちの恋愛は瀕死』
一言で言って「病んだ女の話」と切り捨てていいものか?
例えば独身30手前女が生まれて一度も彼氏と言うか恋人と言うか
セックスする相手がいなかった場合、「セックスってどうよ?」と
ものすご~~~い興味を持ったとする。
「それってどうなん??」
他の友人はまるで食事するかのように「さらり」と経験してしまい
取り残された自分は聞くに聞けない立場になってしまっている。
私の場合運よく(?)経験できたのでセックスについて悩まなくて良かったけど
もし、今の年まで経験できなかったらこの主人公の様に「危ない女」に
なっていたかも…
セックスと言う行為が当たり前(?)と言うか体験したものにとっては
どうってことないんだけど、「それ、未経験ですから!」って出来事に
ただならぬ興味を持つのは当然なんだけど、事が事だけになんか「病的」
って感じてしまった。
興味がある。追求したい!追求しすぎたら「危ない女」になっちゃった。
けど、一つ間違えたら明日は我が身、ってとこが切って捨てにくい感じ。
この作家さん、芥川賞を『乳と卵』で受賞しているようですが、
正直、芥川賞受賞作品ってどれも不可解。
直木賞ならまだ起承転結があるからましなんだけど、
芥川賞って教科書に「これはどういう気持ちでしょう?」と問題が
記載されてこそ「その部分」を必死になって探し出す行為を経て
なんとなく理解ができるんでしょうが…
受賞作品より芥川龍之介の作品の方がよっぽど面白くまた理解できると思うのですが…
選考基準は一体、何???????
私の場合は自分自身が母とうまく行ってない、と言う問題定義(?)
があるのでそれなりに興味を持って読んだけど、親子関係がうまく行っている人には「なんのこっちゃ。ただの会話の垂れ流し」になるんだろうなあ…
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