海堂尊、川上未映子と「癖のある作家」が続いたので、
素直な文章は非常に読みやすい。
特に、猫が出てくるし。ペットのいる人なんか共感しやすい一冊かと。
その一方で、サトルとナナの出会いの場面や飼い猫(と言うのは若干違うが)
になるくだりでこんなに猫の気持ちがわかる人間が「自己都合」で
里子に出そうとするかな?と言う点から結構早い段階で先が読めてしまった。
まあ、結果は「やっぱりな」でしたが。

上記で「読みやすい」と書いたので矛盾するのですが、
ここまでベテランさんになったのなら正直、もう一ひねり、重いテーマとかを
扱った作品をそろそろ出してもいいのでは?とも。
読みやすいし、猫好きにはかなりの高評価を得れると思う反面、
やっぱりそこそこの本を読んでいる人間には「やっぱり、ラノベ作家」
と言う評価を下されるのは仕方ないよなあ…と。
これを持ち味として最後までキープするなら読者もあきらめますが、
万が一「賞レース」に参加したい気があるのなら、やっぱりもう少し
「深み」「重み」と言った調味料を加味していただきたいかな。

ところで、表紙のイラストと「サトル」と言うネーミングに意図は有るのかな?
あと、文中で「コロボックル」と言う語彙が出てくるのと。

『子猫物語』のチャトラン。映画、見に行きましたね~~なつかし~
近同世代だから通じるネタもありますが、そうではない若い世代には
「?」かな。
先日読んだ「母と娘」の関係について書かれた本の中に紹介されていた一冊。
大阪弁で書かれているせいか、読んでいて「なんか不思議なリズムのある文体だなあ…」と。さらに読んでいくと「ああ、何のリズムかわかった!古典の教科書みたいなんだ!」と。
例えば39歳になる姉の妹が主人公なので35歳から38歳の設定として
その若さで会話に
「や、黒くはない」「や、普通って言うのが…」
と「や、…」って会話するかなあ??
そこがなんか古典の教科書の様な錯覚になってしまった。
さて、本作にて娘の緑子はなぜか口がきけなくなり(きかなくなり)筆談で会話するもののどうも「自分の意志とは関係なく自分の体がに変化していくことに戸惑っている」のと
39歳の母の巻子が「東京で豊乳手術する!!!!!」と張り切っていることに対しても嫌悪感を持っている、そんな母娘をぼ~~と傍観している主人公。
どうして娘が口を利かなくなったのか心配しない、むしろ自分の豊乳手術の事しか関心無い母と言う「ああ…」となんか中学生の娘を気の毒に思ってしまう自分がいる。
これまた唯川さんの本の『ティディスの逆鱗』にて全身整形の話で
独身女は体の一部分から変化させていき、次第に次はここ、次はここと
全部触らないと気が済まなくなる(=精神的に破たんしている)のに対して
既婚+子持ちの女は「結婚前の自分の体に戻りたい」=胸を復元と言う
手術を希望するところと似ているな、と思った。
結婚して(しなくても)子供が出来て、乳を飲ませ終わったらどんなに形のいいおっぱいを持っていた女もだらりと垂れた情けない乳を持つようになる。
そこでなぜか「昔の自分」の象徴として「乳を元に戻したい」となぜか
「乳」にこだわるようのである。
その一方で「乳」にこだわる母を横目に娘は
あたしに飲ませてなくなった母乳んとこに、
ちゃうもん切って入れてもっかいそれをふくらますんか、
産む前に戻すってことなんか、ほんだら生まなんだらよかったやん、
お母さんの人生は、あたしを生まなんだらよかったやんか、
みんなが生まれてこんかったら、何も問題は無いように思える、
嬉しいも悲しいも、何もかもが元から無いのだもの。


母が「乳の再生」にこだわることは娘の存在を否定することになる。
「私、生まれてきてよかったの?」と娘としてはそんな絶望的な気持ちになるわなあ…

そしてもう一遍収録された『あなたたちの恋愛は瀕死』
一言で言って「病んだ女の話」と切り捨てていいものか?
例えば独身30手前女が生まれて一度も彼氏と言うか恋人と言うか
セックスする相手がいなかった場合、「セックスってどうよ?」と
ものすご~~~い興味を持ったとする。
「それってどうなん??」
他の友人はまるで食事するかのように「さらり」と経験してしまい
取り残された自分は聞くに聞けない立場になってしまっている。
私の場合運よく(?)経験できたのでセックスについて悩まなくて良かったけど
もし、今の年まで経験できなかったらこの主人公の様に「危ない女」に
なっていたかも…
セックスと言う行為が当たり前(?)と言うか体験したものにとっては
どうってことないんだけど、「それ、未経験ですから!」って出来事に
ただならぬ興味を持つのは当然なんだけど、事が事だけになんか「病的」
って感じてしまった。
興味がある。追求したい!追求しすぎたら「危ない女」になっちゃった。
けど、一つ間違えたら明日は我が身、ってとこが切って捨てにくい感じ。

この作家さん、芥川賞を『乳と卵』で受賞しているようですが、
正直、芥川賞受賞作品ってどれも不可解。
直木賞ならまだ起承転結があるからましなんだけど、
芥川賞って教科書に「これはどういう気持ちでしょう?」と問題が
記載されてこそ「その部分」を必死になって探し出す行為を経て
なんとなく理解ができるんでしょうが…
受賞作品より芥川龍之介の作品の方がよっぽど面白くまた理解できると思うのですが…
選考基準は一体、何???????
私の場合は自分自身が母とうまく行ってない、と言う問題定義(?)
があるのでそれなりに興味を持って読んだけど、親子関係がうまく行っている人には「なんのこっちゃ。ただの会話の垂れ流し」になるんだろうなあ…
先日読んだ『輝天炎上』の対になる一冊。
こちらが『バチスタ』シリーズの完結編としたら『輝天…』は螺鈿シリーズの完結編。
もっと言えば、
『ケルベロス』が破壊される側からの視点に対して、
『輝天炎上』は破壊する側の視点。
同じものを見ているのに、見る側からの視点によってこんなに 正反対に見えるのか、という事がわかる。
そしてなにより、今回の一冊を読んだだけだと、全く持って不可解な終わり方、
と言う感想しか持てない。
たまたま読む順番が逆だったのと本作をすぐに借りれたので内容を覚えていたので比較しやすかったというラッキーさが無かったら…

「小説」と言うジャンルで判断したら圧倒的に『輝天』 の方が面白かった。
本作は正直ダラダラの「あった事実を箇条書きに述べただけ」であって
「小説」と言えるレベルではないと思う。
箇条書きに対する「肉点け」は「キテン」(変換がめんどくさいので今後はこれで記載)に丸投げ。
全く違う出版社の違うシリーズを読まないと、メインシリーズの顛末が意味不明な構造って、正直読者を馬鹿にしてませんか?
というより、あくどい商業主義にしか見えませんが?
「これは内科だと思いますが、この部分に関しては外科ですので、そちらで
診察をお受けください。」と個人病院で言われる感じ?
当然、その部分は「初診料」をガッツリとられて、管理料も2重に搾取されるあの構造。総合病院で「一本化」してもらったら初診料やその他の加算は1回で済むのにね、って感じ。
(と、医者が書いた本なので、医療的にイヤミを書いてみました)


ところでこの人の本はパターンによっては「小説」として面白いのもありますが、その反面「タダの愚痴&不満」の羅列を一冊にまとめただけの駄作もあり
当たり外れが非常に大きい作家(と言っていいのか?)。
元々は「AIが認知されたら、検死精度&制度が上がる」という事から書き始めたのかもしれないけど、シリーズの中で「AIが世に出れないのは、ぼんくらな官僚=厚生労働省のせいだし、もっと言えば解剖をないがしろにして検死をする
警察が悪い!」という事を言いたいだけ。

警察や官僚に「頭がいい&文章が上手い」人がいたらこの作家に対抗して
「あちらはああ言ってまるでAIが絶対!みたいな事を言っているけど、
現実としてはこれだけの問題を抱えているんですよ!」って対抗してくれたら
良いのに。

一方的な主張だけでは不完全って、今回のラストで証明したように
同じものを見ているはずなのに、視点が違うと
真逆な結果を生み出す
って、自分で書いているのにね。

警察が検死をおろそかにするのは推定ですが「監察医」の絶対的不足。
そりゃ、誰だって癌で死にそうな人間を相手にするのと、どんな死に方をしたのか不明だから解剖する蛆虫ウゾウゾ、悪臭プンプンの遺体解剖するのに
どっちが情熱を傾けれますか?ってこと。
どんな状態でも医者なら生きた人間の方がいい!ってなりませんか?
そうなるともう流れ作業で「これは…まあ…事故死でしょう」って
流していかないと無理じゃないっすか?
AIが拒否られるのであれば、じゃ、医者の一定数を監察医として召喚する
制度を作ればいいじゃないですか?ってなりませんか?
まあ、実際問題、この作家もそうだし『神様のカルテ』の兼業作家にしても
「医療界における医者のハードワーク」をこれでもか~~~~と
世間に公表しているんだから、普通の生きた人間相手の医者ですら不足
何だから死体に医者を回せるか!ってなるんでしょう。
じゃ、AIなら医者不足を解消できるのか?ってなると今度は
「この国は金が無い」ってのを先の政権がばっちり日本国民に知らしめてくれたんで、機械導入のための金、そして診断する医者の採用における給料の問題など
「はい、認可!」ってするにはやっぱり各省庁の「お金の分配方法」がどこかに
絡んでくるんでしょうね。
警察官僚の力がものすご~い比重である時は即座に「AI導入の為の予算倍増!」となることでしょう。
今の自衛隊にかなり予算が回されるようにね。

自分が「こうなればいいと思っていることがスムーズに進まない!!」
って言うまるで子供の様な「わがまま」を「医者が書いた本」という事で
注目を浴びて成功させた様にしか見えないんですけどね。
『バチスタ』だけ読んで「面白かった」と終わらせた人や元々そのバチスタすら本も映像も見ていない人にはAiは全く浸透しなかったわけですが。
私が生きている間にこのAIと言うシステムが機能しているか、
傍観させてもらうとすっか。
まあ、思っているだけど声すら上げずにいるよりはましかと思いますが。
公務員は「守秘義務」があるから反論したくても墓まで情報を持って死ぬのが
建前なんでたとえ小説と言えども反論できないのに対して一介の民間人の
医者が「自分はこう思う!」と声高に言えるのとは立場が全く違うんですけどね。

立場の違い、分かってますか?
なんかこの人の本を読んでいると「片方だけの言い分」を聞いて、
一方的にもう片方が『悪い!』と決めつける、母親の図見たなものが
浮かんでしょうがないんですけど。
公平な両方の目から見た視点で書いて欲しいな。
特に若い子たちがフアンについているなら。
偏った意見を世の中に放出しないで欲しい。軽度洗脳にすら思える。
官僚&警察側からの意見がほんと、聞きたい(読みたい)なあ…
これも海外の映画や小説を元に「母と娘の在り方」を分析した本。
って、結局は母と娘の関係のむつかしさを解く本ってこういう過去の作品の
「分析」に頼らないと書けないのものなのか?と。
そのままずばり「精神学的」に直接切り込んだ物は書けないんだろうか?

ところでこれを読んでいる時に、長男は旅行の事で神戸に打ち合わせに行っていました。
次男がぼそりと「太郎君、おばあちゃんと仲がいいね。おれ、絶対に
ばあちゃんと旅行になんか行けない」と。
全くその通り。過去にスペイン旅行に行ったけど、散々の極みだった。
さて、帰宅した長男、靴を二足買ってもらってました。
もう、ほんと、こういう「差別 」を平気でする女だから大嫌い!

まず想像に値するのが
長男がその日クロック×もどきを履いて行ったので
「あんた、靴無いの?」「うん(というか、夏だからこんなもんでしょ)」
「今度の旅行は歩くし、そんな変な靴だと(私が恥ずかしい)歩けない」
とか言って一足は運動靴?そしてもう一足はトレッキングシューズ(もどき)。
二足で1万行かなかったそうなので。
でもそれはそれで案外「歩きにくい」ってことになって余計に足を痛めそうなんだけどなあ…
とまあ、予想した通りの展開で靴購入に至ったそうで。
まんま私の推測通りの展開だったようでほんと、ワロタ。

一人には異様に目をかけて、もう一人は無視!
私が兄と比較されてやられてきたことをまんまうちの息子たちにもやっている。
普通片方に2足買ってやったらもう片方にもバランスの取れることをやってやりませんか?
全くそういった「心使い」ができないから私は母を憎み、嫌う
そのくせ私たち夫婦の子育てに難癖をつけるから余計に始末に負えない。
(夫に「次郎ばかり可愛がっている」って言われた、と言ったら
「ワシの子育てに文句があるなら、ワシに言え!」と昨日も憤慨していた)

まあ、私の母親は全て「私」が悪い!と決めつけてそれで自分は優越感を
浸りたいようなので。

ところで長男と祖母の関係は女と男なのでうまく行くのだろうか?
これが孫娘&祖母ならどうなるんだろう?とか思ってしまった。
義兄宅の娘たちが単独で祖母宅を訪問しているようには到底思えないが。
(うちは「小遣いもらいに」と自転車で単独訪問したりしている。これは
次男もやっている。)

それでも帰宅後、爆睡している長男を見たらやっぱり「疲れる」んだろうなあ…
とか思ってしまった。
長男が図書館で借りてきた本を寸借。
5年前の事例が書かれているが、もう感覚的に「すでに過去」ぽく感じるぐらい、情報やツールの進化、変化はめまぐるしい。

一章で携帯を通じての事例が載っているが、今ならスマホでlineをしているか、
どうかで「イジメ」の被害者になるかと言った感じか?
うちの次男も「lineがしたいからスマホにして!」と泣き付かれて今年の2月に変更したばかり。嬉々としている様子から相当「仲間に入れない」ことに対する
焦りと言った物が透けて見えた。
先日新聞の読者投稿欄に同じく40代の母親が娘に「lineがしたいから携帯、買って」と泣き付かれ母としては携帯は不要だと思うがここで娘に「いかに携帯が必要かをプレゼン させて、納得できたら買う」と言うのがあった。
それを読んで、同じ母の立場から
お母さん、グダグダ言ってないでさっさと買ってやれ」 と言ってやりたかった。
特に「娘」でしょ、お宅。
うちの息子にこの本で「学校裏サイトって最近聞かないよね?」と聞いたら
「まあ、確かに。でも、女子はわからんで。あいつら、闇 やから。 」と。女子の方が相当「陰湿」に「ハブ」を行うらしい。
それは私たち親世代には全く理解しがたい巧妙な陰湿な行為を平然とやるらしい。
「おれ、男で良かった」それが本音かも。
確かにガラケーよりも使用料が数段アップするのだが、それでいじめに遭って
登校拒否、もしくは自殺に追い込まれるのであれば「安い」と判断してしまうほど今の子は「情報の共有化」「人と同じ」ことにこだわるようである。
大学に入っても友達関係にひたすら気を配るのは「上から目線」の時に
知った事であるが。
私たち親世代とは全く価値観が違うので「携帯そのものが必要なのではない。ただ他の子と違う事をするのが怖い」のである。


後半は親が金欲しさに自分のパンツをネットで売り、そのうち「娘さんいないの?」「いる、2歳」と返答したら「その子の下着を…」「その子の写真を…」とどんどんエスカレートしていき「親が娘の裸写真を売りつける」とこれまた
理解できない事が書かれている。
昨日よんだ「毒になる親」が精神的な悪を子供の心に植え付ける親の存在を
指摘したら、これは一体どう解釈したらいい「親」の姿が浮かんでくるのだろう?
親自ら子供の不利益を生み出している。
親の軽はずみな行動で、娘(息子)の将来を危うくしている。
もし自分が同じことをされたら…と言う想像力なんて全く無い親たち。

読みながら隣で寝っころがっている長男に
「おい、パンツ脱げ。売るぞ!写真撮るぞ!」と言ったら
「へへ~20歳の息子のパンツ脱がせて写真撮る45歳の母~」と
笑われてしまったが、二人の中で「ありえない」と分かっているから笑えるが
無邪気に母親に「パンツ脱いで」と言われニコニコしながら脱いでいる2歳女児の姿を想像したら…
で、長男と「2歳の子どもの裸見て、嬉しいもんかなあ??」と。
けれどそんな嗜好の愛好家もこの世には存在するわけで。
自分の価値観だけで「そんな人、いない」と決めつけるのもヤバイ。

そういう意味ではこんな子供もいるし親もいる、と言う「自分の身近にはいない」(と思いたい)人たちがこの世にはいる、ってことで。
題名の「親」の部分を「母親」にそして「夫」に変えてみたら
より一層自分に身近に感じる一冊になる。

「子どもの時、私はあの親に依存し、自分の力ではそれをどうすることもできなかった」と認めるには苦痛が伴います。
「私の親は、自分の子どもを育てるという、人生で一番重要であるはずの事を上手くできなかったのだ」と認めるのには勇気がいります。
その為多くの人は傷つきたくないがために、事実から目をそらし、理由を付けて
正統化しようとします。
親の問題は目をそらしたり、ことさら小さく考えたり、逆に実際より
悪く考えることなく、バランスの取れた見方をすることが大切です。」

愛情を与えない親にもいくつかタイプがあります。
第一に自分の中に人間的な感情を深く感じた事が無い人たちです。
そういう人間は、元々他人に与える愛情をほとんど持っていません。
次に、感情が乱れていたり、自分の事で頭がいっぱいで、他人の気持ちを
思いやることがほとんどできない人たちです。
そして第三が、スキンシップや親密な関係を持つことがい心地悪くて、
子どもに近づくことができない親です。

殆どの場合、彼らの行動は無意識的です。
それは彼らがそれまでの人生で学んできた行動形式であり、
彼らはそういう性格になるように親から育てられたのです。


親と「対立」してその後親が良くなるという事はまず期待してはいけないのだが
それでも「距離を置く」という事をしても全く問題が無い、と後押ししてもらった感がある。
親の子への接し方次第で子供の将来、人格が決まって行く。
怖い。
けれど、その一方で今の風潮で「できちゃった婚」なんかしているタイプは
将来どんな子供を育てていくのだろうか?
その責任と重圧をどの様に受け止めて子育てしていくんだろうか?

例えば、私の母親と長男が今度旅行に一緒に行くらしいのだが、
それができるのは長男が部活などを通して常に「コントロールされている」
事になれているからではないだろうか?
顧問に常に「指導と言う名の命令」を無条件に受け入れ、他のメンバーと
合宿&遠征と言った事を通じてより一層「それが普通」の状態であるという
認識を持っているから母親の様に常に「命令形」で会話をする人間を
相手にしても「違和感」「不満」を持たないのではないのか?
一方、次男は密かに私の母親を「苦手」としているところがある。
部活にしても集団ではなく個人の要素を強いものを選んでいるのも理由があるのかもしれない。
それは、子供が乳児&幼児の時に母親が「アンタ(私と夫)達は、次郎ばかり
可愛がる!!怒 太郎をもっと可愛がれ!怒」とよく言われた。
その結果、母は事あるごとに長男に「太郎ちゃん、太郎ちゃん」と次郎とは
違う口調で接している。
それは、私と兄に対する「差別」の再現 の様に見える。
自分では「差別していない!」と言い張るのだが、20年経っても
二人いるうちの一人だけを特にかわいがる、と言う傾向は一向に治っていない
と思うのだが。
祖母に溺愛された長男が一向に自分の考えで行動できない人間になったのに対して地道に努力する次男は私の母のコントロールを受けていないからだと考えるのは考えすぎか?

この本を読んだ後で、母、父、そして姑に対して
ああ、この人たちも親から愛されずに育ったんだなあ…
と憐みの目を持てたら御の字かも。
愛されてないから愛せない。
この人たちから今後「愛される」ことは無いけれど、私は自分の子ども&毛皮の子どもは「愛して」行きたい。
申し訳ないが、実家から「脱出」するための「手段」として利用させてもらった
「夫」を愛することは…ねえ…もにょもにょ…
ごめんね、愛されずに育った私は、夫を愛することは、やり方がわかりません。
午後に一回入力したのに消えてる…涙
今日なんかえらく接続するのに時間かかってたし。
Dnってこういうとこあるよなあ…
書いたものが消える…このショックはねえ…
と言うわけで長い引用も全部パーになりましたが気を取り直して。




父と息子は一般的には単純な対立関係や権力闘争になりやすいからです。父は息子を抑え込もうとし、息子はそれに反発するかしぶしぶ従うかのいずれかですね。
ところが母と娘の権力関係は共感と思いやりによる支配、と言った、
遥かに複雑な様相を呈しています。
母は娘に対して「あなたの為を思って」と言う大義名分を掲げながら、
実際には自分の願望と理想を押し付けようとします。
娘は母親の欲望を先取りするかのように表面上は反発しつつも
そうした支配に逆らうことが出来なくなります。
この構図は自覚される場合もされない場合もあるようです。


この本の感想を一言で言うと、今現在母親との関係に苦しんでいる
言い換えれば「母殺し」をいかに行うかを日々悩んでいる人間には
全く役に立ちません。
解答と言うかアドバイスすらもありません。要は「解決策は、無い」と
言われているようなもんです。
ではこの本は一冊何を書いているかと言えば、
マンガ、小説において母と娘の関係を書いている作品はこれです、と
ガイドブックの様なものでした。
全くの肩すかし。

けど、今ふと思ったのはフジケイコとウタダの関係も根深いのかも。
個々も案外、母娘の関係がこじれていたのでは…
例えば中学で習う「Ican」にさらに「help you」を足すと
「僕が手伝うよ」と言う言葉になる。
まあそういった基本+何かで会話になる、と言う事が書かれた本。
ただし+以降に続く単語が頭に無いとあくまでも「I can」としか口に
できないので「会話」が成り立たないのですが…汗

しかも結構取り上げられた例文が外資系もしくは日常会話を英語で
する会社ならものすごく役に立つんでしょうが、本当に何気ない会話を
するにはあまり役に立たない例文が多い気が…汗

それにしても予約を入れて二か月。
これ一冊しか蔵書が無いのに私の前に借りていた人が延々と延滞した割に、
ものすご~くきれいな状態だったので
「読まずに置いておいたんならさっさと返却しろよ!怒」
と思ったし、
さらに待った割に内容がイマイチだったので余計に残念度がupだった。
3月に予約して48人待ちでやっと読んだ。

恐るべし理系。
まさか今まで読んだ本が全て「伏線」になっているとは…
まるで張り巡らされた蜘蛛の巣の様な構成。
その一方でもし「バチスタ」が当たらなかったら他の本は出版されなかったんだろうか?と言う疑問も残るが。

これで一旦終了らしいけど、それでもなお謎が残るのでモヤモヤしたものは
有ります。
今回読んでいて

頼むからレビューとかに「私もこんな助産院で赤ちゃんを産みたいです!」とかいう低レベルの感想を書きこむなよ!
と思いながら読んだ。
嫌なんで、これを書く前には他人さんの感想は読んでいない。

4冊読んでさらにはっきりしたのは、この書き手、
メルヘン&ファンタジー作家
だという事がわかった。
4作ともファンタジー。
現実逃避ともいうけど。

きれいごとのオンパレード。

一作目の『かたつむり』は一日一組、面接後に相手の作って欲しいものを作るという絶対に黒字にはならない商売を堂々とする女の話。
次の「喋々喃々」は妻からは夫を娘から父親を奪うという罪深い話を
ものすごくきれいな布に包んで「無かったこと」にした話。
「ファミリーツリー」は泣き虫の甘ったれかつ自我を持たない男と
妊娠の一言でこれまた無かったことにする女の話。
本作では失踪した夫を探すために過去に一度だけ行った島に行き、
これまた「ファンタジー」な結果を使って力技と言うより単に
臭いものにふたをして終わらせた話。





そりゃ、私が嫌いになるはずだ。
そこに汚い物には全く触れず、全てきれいごとでま~~るくなかったことにして
終わらせるのがこの人のパターンだから。
終わった後の事後処理とか今後なんて一切触れず、丸投げ。
多分若い人生経験の無い子はその触れなかった部分に気が付かずに
「良かった~この作家さん、好き!」なんぞとほざきやがるんだろう。

それにしても。
一作目で金も声も男も失った女が料理を通じて再生し、
2作目では不倫とはいえども男と新たな関係を結び
3作目では妊娠して終わり、
4作目では出産して終わる
と言った、まるで「子どもが出来りゃすべてよし!」「食べることは生きることに繋がる」「生と性は一心同体」とでも言いたげだな。


子どもを産むことをきれいごとにしないで欲しい。
この書き手(あえて「作家」と言う表現は避ける。
このレベルに「作家」の称号を与えるのは屈辱に感じる
)の
本も3冊目。

大体根底に「死と生」そして「家族」があるのはわかってきた。
けど、映画でたとえたらセットがものすご~く金かけて時間もかけて作成した割に主演俳優が大根だったり脚本がクソってレベルで、見終わったら
「え?これで終わり?」
「え?何、これ…」
と、払った金返せ!!!な気分になる。

張りぼてで中身なし。

どっかで読んだ小説の切り貼り。
切り貼りで全体が出来上がっているので、
気持ちが籠っていないから読み手にも「薄い」と言う
感想しか与えない。

面白い事に読書めーたーとアマゾんでは評価が全く違う。
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4591112497/ref=cm_cr_pr_hist_2?ie=UTF8&filterBy=addTwoStar&showViewpoints=0&sortBy=bySubmissionDateDescending

http://book.akahoshitakuya.com/b/4591112497

書き込み手の年齢によるものなんだろうけど、私の感想は大体アマゾんに
書き込んである人たち寄り。
むしろベタ誉めしか書いてない読書めーたーの感想の偏り方に「ん?」
となってしまう。


これだけ文章を書き込んで一冊作り上げているのに、一瞬「伏線?」
と思わせるようなエピソードがてんこ盛りの割に生かされず。
その分、内容があいまいになりぼんやりとした印象になる。


自分で結論を出さず、曖昧にぼんやりと何気なく毎日にを生きている
人たちにはそんな生き方を責めらることの無い文章なので
居心地が非常にいいのだろう。
そういった意味では、今時の子にはぴったりの本。
「そんなだらしない、目的の無い人生でどうするの!!」と
強く言ってくる厳しいやさしさ世代には受け入れにくい一冊。



やっぱり嫌いな書き手の一人。
普段から着物を着て(アンティーク着物屋だから)、おいしい料理を作り
どこか品のある町に住んでいる主人公。
でも、不倫の話なんだよな!

しっとりとした雰囲気の中、おいしいものが食べたくなるような…
でも、不倫の話なんだよな!

温かい人情味のある町の人たちに囲まれて、そしてキリンの様な穏やかな雰囲気の素敵な男性と知り合った。
でも、不倫の話なんだよな!

クラスに一人や二人いそうな、
「えっと、横山栞さんってどんな人だっけ??」
「ほら~大人しい」
「そうそう、まじめな感じでえ~」
「優等生?って感じい??」

「けど、二股三股は当たり前。エンコウもしているんだって~以外~」

と言う話題になりそうな
不倫の話なんだよな!

まるで食べ歩きのガイドブックを読んでいるような、きれいでさらさらとした
雰囲気の文体なのに、汚い物は極力蓋をして
不倫だけど、私たちはお互いを心から求めあっている
美しい二人…
ってのが前面に押し出されているので
読んでいる側にしたら全然面白くない。
まったり感というか、おしゃれな雰囲気を醸し出しているので
「不倫って…悪くないかも?」って頭の悪い子なら勘違いしそうな出来上がり。

読んでいてひじょ~~に苦痛でした。
島本りおレベルで嫌いな作家になりそう。
でも、他にも借りちゃったんだよなあ…

映像化するなら主人公は是非「だんみつ」さんで!!
男優の方は一見まじめそうでやさしそうで誠実そうなんだけど
裏では女と見れば当たりかまわず喰っている奴ならどれでもOK!笑

この作者、『食堂カタツムリ』もそうだけど、結構 嫌な奴
なんじゃないかな?
全体的に女の子女の子している割に、実際のところやっていることは
さいて~、って感じで。
不倫している奴には「共感できる~」ってなりそうだけど。
まともに嫌なことも我慢して人生生きている人間から見たら、
どこまでも小ばかにされているように感じるカスな一冊。
翻訳本だからゆえどうしようもないのだろうけど、米国と日本の服装の違いが考慮されず、さらに訳者がどこまでも忠実に訳しすぎた結果、非常に読みづらい 状態になっている。
しかも、内容をてんこ盛り過ぎてかなりお腹いっぱい。

ワードローブの整理をすることで一番大切なのは
現在のライフスタイルを知ること!
専業主婦で育児中のタイプがスーツしか持っていなかったらそりゃ~
「服が無い!!」になるでしょうし、パートに出たのにいつまでもカジュアルな
服ばかりだとそれはそれで「服が無い!」になる。当然の事。
もっと言えば生活のスタイルが変わってしまったのにいつまでも過去の栄光にすがったような服を着いて平気な人もたまにいるよね~。流行遅れもいいとこの服を着ている人がいて、見た方が目をそむけちゃう時って。

あ、今年の正月兄嫁(40代後半)の独身の時の服を姪(21歳)が着てきた。
「まだ、着れるから」



「違うだろ!!!!」怒 って思ったけど、ね。
その一方で残りの3人が一つ5千円の服の福袋を買って持ってきてた。
兄嫁曰く「5人で着まわす」との事。


その感覚が「痛い」んですけど…
とはいえ、私も次男からのTシャツやGパンを着用している(ただし庭掃除や
このくそ暑い夏の間、しょっちゅうシャワー浴びて着替えるのに利用するのみ。
外出時は私用にちゃんと着替えますから!!!!!)


最後に体型別の服を選ぶポイントとかも掲載されていたので引用しようかと付箋を貼りまくっていたけど、あまりにも長ったらしい文章ゆえに、パス!
「~しましょう」が多すぎ。
読んだ割にポイントがぼやけすぎて役に立たなかった一冊。
こういった内容の場合箇条書きでポイントを絞った文体にして欲しい。
英語の宿題が「泣ける話」についてだったのでどこかでこの本が「泣ける」と
聞いた気がするので借りた。
ちなみに先生がこの宿題を発表した時、つい「私、心が邪悪すぎて泣くこと、
めったに無いからつらい宿題やなあ…」とぼやいたら先生が
「うちの娘も同じことを言っていた」との事。仲間がいて良かった、良かった。

さて、感想。
「泣くことはありませんでした」。という事がまず第一に。
逆にこのレベルで泣ける純粋な人が非常にうらやましい。
それにしてもアマゾ×におけるこの本の感想、見事に真っ二つなのが非常に
興味深い。本の内容よりもなぜそこまで好きと嫌いに分かれる要素があるのか
そっちを分析してみたいもんだ。

個人的に突っ込んだのが食堂を開くにあたって管理責任者の講習とか受けなくていいの?(保健所の人は来たけど、あくまでもイモリの丸焼きについての追及だし)
ペットのブタを食べることについては賛否両論の極みですが、
確かに自分のペットを解体するのは心理的に抵抗がありますが
心を籠めて目玉とひずめ以外を全て料理しておいしく食べてもらったら
確かに形は無くなれど、エルメスの細胞の一つ一つ血の一滴すらもが
今後食べた人の体の要素となって「繋がっていく」という事には
必要なのかも。
これで「無」になるのではなく「生」になる。
狩りで得た動物を感謝して口にして今まで人間は生きながらえてきてるのに対して、今の子は店でパックになったものしか食べたことが無いからどうしても抵抗が大なのかもしれない。
それも、元はどんな形をしていたのかもさえ知らずに。
(付け加えて言うなら、一生懸命作ってくれた人に文句まで言うという
おまけつきで)


ぶっちゃけ、恋人(インド人)に全財産を持ち逃げされショックで声すらも失い、一日一組の客の為に料理する…と言う展開は『西の魔女が死んだ』の様な
祖母から孫娘に伝える「生きる知恵」をベースに日常を取り戻すの話なのかな?
と思いながら読みましたが。
上手くいかない母と娘、と言う視点から見たら大人の為の本と言うより思春期で親とうまく行っていない小中高生向きの話なのかも。
(と、未成年を対象にした話にしたら、若干お下品な表現があるので
それはそれで無理かあ…)

中途半端かな?読者ターゲットが。
もっと絞り込んでも良かったかも。
ぶれた分、好き嫌いが分かれたのかな?
ただ、料理を作る時に素材になってくれた物たちに対して敬意をもって
接するべきだな、とは思った。

と、ここまで↑書いて夕食を作りながらつらつら考えたんだが、
ブタって本来家畜であってペットにする動物でもないのだから
きちんと最後まで食べられてこその存在意義なのでは?と。
もっと突き詰めると元々未熟児に近かったので本来ならすぐに殺されてたはずだったのがたまたま助けられて生きながらえたのだから、すくってくれた人に喜んで最後はきちんと食べてもらって良かったんじゃないのか?と思うんですが。
ペットとして最後まで生きたとしても骨も残らずに火葬されるより
「生」のリンクの一環としての存在でいいのでは?
また、ハトが飛んできてそれを料理することにより母の死から立ち直れたのなら
その死は生に繋がるので、問題ないと思うし。
むしろ拒食症のウサギが出てきたけど、あれを食べるよりはましじゃない?
ウサギだって本来学校にいる白いタイプは「食用」として飼われていたものだし。今回のは初めからペットとしてのウサギだから逆に生かされたのだから。
コメントを読んでいると妙に生き物を殺すことにヒステリックになっている人が多々見られるけど、毎日野菜でも肉でも食べて自分たちの血肉にしているんだから変なの。
もっと言えば、この舞台が屠殺ができる土地だからこそのエピソードじゃないんですかね?都会でブタを初めからペットとして飼っていてそれを殺すのなら問題だけど。
自然の恵みを心から感謝していただく、それができる環境だからこその話だと思うんですが。
似たような内容でも『すみませんの国』や『上から目線の構造』の著者よりは
若干マシ かな?と思いつつ読んでいたのですが、最後の最後に
この章ではやさしさ社会の怖さやしんどさを少しでもマシにする方法を考えるのが目的でした。けれども課題を指摘するばかりで、具体的な方法を示すことができずに終わってしましました。適当な「解答」を述べて終わらせるよりは、この方がマシかなと、考えたからです。


丸投げかい!!怒

そもそも中盤戦はどう考えてもいらないと思われるような例がバンバン載せてあり、思いっきり読み飛ばし。関連性は一体どこにあるの?って感じ。

初めはね、やさしさには

やさしいきびしさ・厳しいやさしさ があるという事で
その違いはと言うと
やさしいきびしさ…やや古いタイプのやさしさです。
基本的には相手に厳しく接しています。ただしその厳しさは優しさに基づいています。例えば、将来、相手が苦労したり傷ついたりしない様に、今は相手に厳しく接して、反省させたり、ある態度や技術を身に着けさせるような場合です。

きびしいやさしさ…新しい現代的な優しさです。
それは、いま傷つけないように全力を尽くすこと、を要求します。
先ほどのやさしいきびしさが、今は傷つけるかもしれないが将来を思えば仕方ないと考えるのと、対照的です。
傷つけないようにする点では、優しいと言えます。
しかし「絶対に優しくしないと許さないぞ!
もし傷つけたら、それなりの仕返しをするからな!」と言うような、
厳しさが感じられるのです。


「やさしさ」の概念が変わってきているんですねえ…
これは今、40代の人が20代30代の人に接する時に頭の隅に
置いておく「要注意ポイント」かと。

その違いは「友人との関係性」にも見られ
対等性の原則と言うのは「人間関係、特に仲間内の人間関係は、対等であるべき」と言う原則を意味します。
また、多くの若者が友人には悩みを相談しないようなのですが、
この現象も対等性の原則から理解可能です。

多くの学生が友人に悩みを打ち明けたり相談しないと答えたのです。
理由は様々ですが、特に目を引いたのが
「もし相談したら、相談した自分が相手よりも一段下の立場になり、
対等な関係で無くなるから。」という答えと
「友人と一緒にいる時間は限られているのだから、
せっかくの時間を相談の様な重い話題で暗くせず、
当たり障りのない明るい話題をして、楽しく過ごしたい。」


これも絶対40代の人はきけ~ん。笑
というか私たちの世代では「友達じゃないの。相談に乗るから、言って」
とか「水臭いじゃないの。力になるわ」と言った臭いセリフてんこ盛りの漫画で育った んですからねえ…汗
とはいうものの、友達に相談したら「一段下の立場」って…
どこまでも対等であること にこだわるのねえ…今の子

だからこそ、恥をかかされるような言動を取られたらキレるんでしょうねえ。
この50年の間に生まれた日本人の多くが「こわれもの」
「腫れ物」扱いされて成長してきたことになります。

それは「恥をかかせたりして、傷つけたら、いつでも爆発してやる」
と無意識のうちに考える日本人の大量生産、と言う結果です。
言い換えると「自分はばかにされていなか」と常に気にする日本人の
大量発生です。

例えば電車が混んできたので近くの乗客に「奥に少しお詰めください」
とお願いされただけで、その乗客に対して「むかつく」人はいくらでもいます。
注意する・されるという上下の差が出来てしまい、注意された人は一段下に
置かれた感じがして「バカにされた!恥をかかされた」と怒るのでしょう。





世の中、どんだけガキンチョだらけやねん!
「詰めてください」
「ああ、すんません。気が付きませんで」
で、済まんのか?今の時代。

そうそうここで「すみません」が出るかどうかなんだけど
やさしさ社会は、対人関係について、気楽さ、気軽さの
無い 社会です。
予防的やさしさは、互いを「腫れ物」「こわれもの」として扱いますから
気軽に人間関係を持つ、という事が出来にくくなります。
日本人の人間関係で気楽さが欠如していることは、
日本人が謝らないという事実に、現れています。
よく「日本人はすぐ謝る」と言われます。しかし、それは条件によります。


この部分が『すみませんの国』には説明がなかったんで、本書の方がマシだな、と思った次第。
そう、「謝るのは、親しい身内だけ」と言う点。
企業が不祥事を起こした時は確かにすぐ謝罪します。
次に、知り合いや仲間内に対しても、すぐ謝ります。

ただしそれは近所の人や職場の同僚などに対してであって、
知らない人にぶつかっても「ごめんなさい」「すみません」
と言う人はほとんどいません。

と言う記述があっただけでも本書の方が先の2冊より私の意見と一緒だったので
まだまし、と言う評価に繋がりました。


けど、新書ってなんか著者の言いたいことだけ言って逃げ切り!みたいなんばっかりやね。
難しい事言っているように見える割に、読み終わったら「で?」って感じで。
これならいっそのこと小説の方が作者の言いたいことで固められて「なんか文句ある?」ってノリの方が好きだなあ。
『「上から目線」の構造』と同一著者。
う~~~ん。
簡単に言って「英語と日本語の比較文化論」。
日本語の本音と建て前と分析したりしているんだけど、
終始「ほわほわ」した文体と言うかまさに著者は日本人!ってな感じで
本当はこの結論に落とし込みたいのだが、それまでに延々と「例」を挙げていいって何とか一冊分にまとめました、てな感じ。
まさに「個の責任」を取りたくないので「場の責任」「集団の責任」じゃないけど
「私はこう思います!!(言い切り!断言!)」的な文章は避けている

引用の羅列で、てめえの意見は持ってねえのかよ!

これを読めば違う意味で「ああ、日本人って他人に説明する時
こんなに回りくどい、そして主旨を曖昧にしたがる人種だなあ…」と
一目瞭然!(毒)

読み終わった感想。


「すみません」が感想書くに気もなりません。

う~~~ん。
表紙のイラストからして外国の話だと思っていたら、舞台は日本。
しかもなぜかユーリ、トーマと言った外国風のニックネームを与えらえての
全寮生活。華族とか出てくるので、一体いつの時代の話???
さらに、文体は透明感あふれていてかなり独特な雰囲気を醸し出しているものの、「ああ、何かを隠したい。そこを触れずには話を進めたい」と言うのが
見え隠れして、奥歯にものが挟まった状態で進行するのが私の性格的には
「イラッ」としました。笑
まあ、今の時代はBLなんぞと言うジャンルが確立した時代ですので、
読んでいて大体察しはつくのですが。
でも、これをマンガとして掲載された当時は相当「問題作」として扱われたのではないでしょうか?
少女漫画にこんな世界観を持ち込んでいいのか!!みたいな。
萩尾望都は「11人いる」は読んだ記憶があるのですが、こちらの原作は未読。
というか、まだ小学生だったのでこの人の「絵」は好みでは無かったという理由ですが。子供にはなんか「難しそう…」と言う先入観を持たせるには十分だったような…(まあ、実際、この話の内容だとちっとも理解できなかったでしょうねえ…)
ところでなんで題名が「トーマの心臓」なんでしょうか????????
トーマってそんなに重要人物???????
舞台を変更したのと同様、内容もかなり脚色しているのでしょうか???
う~~~~~ん。
独特な雰囲気を纏った文体の割に、内容が深く描写しきれなかったように感じるのですが…

読後感は「で?」です。
若者の成長期の話にしたらかなりインパクト低。
中途半端。
逆に「じゃ、原作はどうなのよ?」とそっちと比較したくなるので
もしかしたら「販売戦略?」とまで思ってしまった。
シリーズ第二弾!
高校2年生に進級。
スポーツ小説のお約束=けが をいたします。笑
全く、けがをしないと人間的に成長するって言う描写ができないもんですかね?
確かに、中学から続けていたらそこばっかり使うから仕方ないけど。
本作の場合は自分の不注意からけがをしたのではなく、事故に巻き込まれての
負傷なのでは有りますが、それによってインターハイの予選に出れなくなったので3年の先輩に多大な迷惑をかける=精神的に落ち込む…と言う展開。

乱暴な言い方だった。けれど今、紗智(=3年部長)が自分の為に、こうして時間を割いてくれていることをようやく理解した。
けれど、それは有里のためだけではない。ソノ女ボート部の為…
「たとえ誰が乗るにせよ、次の<天狼>を、最強にするのが有里の仕事。
その為には、自分のせいだとか、妙なうしろめたさは捨てな。」


ここでも 自分の為だけに競技をするな!
チームワーク、みんなの事、全体の事を考えろ!

とある。これは作者がそうメッセージを送ったのか、モデルになった学校の
顧問がそう言っているのをくみ取ったのかは不明だけれど、
強い学校にはこういった「教え」がきちんと生徒に伝わっているのかもしれない。

あと、後輩が別の後輩ばかりを「かわいがる」ことによって不満を有里にもつのだが、有里のボートに対する情熱を知った後に退部を思いとどまる理由として
「チームワークを大切に思う事と、
人は人、自分は自分と思いきることは、両立できるんだって、わかったって」
と、新部長から言われる。

この人は人、自分は自分をなかなか分けることが出来なくて、人生いろんな場面でみんな苦労しているんだけどねえ。それが高校生の時にわかったらきっとその後は楽になるんだろうなあ…


さて、次巻は(きっと)高校三年生。
2巻でもちらちらその後=大学選び が出てきたので、最後のインターハイで
優勝を決めた後、大学でも続ける…的な展開になるのでしょうか?

少し『武士道××ティーン』シリーズと展開が似てると言えば似てるかも。
http://75552.diarynote.jp/201109061135107940/  ←参考
  ↑
 偶然、これの感想の前に「アリさん注意報」をアップしてました。
その後、どんなことが有ったのかちゃんと記録を残さないとね~~~

予想を外して、いきなり「大学生編」になっているかもしれないけど。
後は、ちょっと気になる男の子も出てきたしね~~~笑


レガッタ、えがった、えがった!




暑い夏に少しは涼しさを感じていただけましたでしょうか?

こちら、「ヤングアダルト」と言う分類で図書館の一般と児童書の間に置かれてました。
高校生のボート部のお話。
先日読んだ『銀盤…』に比べて、対象を小中高生に絞っているせいか
女同士の嫉妬有、部活が忙しくて男の子と付き合えないと言った悩み、など
リアルと言うより一言「共感が持てる話」に仕上がっています。
『銀盤…』は大人対象で「いかにスケート業界の内情を知ってもらうか」に
重きを置きすぎていてキャラが立っていないのでつまらないのですが、
こちらは部員が多数登場するのにも関わらずキャラが立っている感じ。
生き生きさはこちらが断然、上!

さて、今時の子を対象にした内容だけあって「名前」がいかにも今風。
主人公からして「有里」=あり
「南都」=なつ
「麗華」=れいか

「美帆」=みほ はきっと親が元選手とか言った伏線がありそうな名前だけど。
こうやって「親が期待するものを漢字」に当てはめた名前の付け方を本当に
しなくなっているんだなあ…というか、漢字見ても日本人か外国人か判断できないし。
「有里」をせめて「ゆり」とか読ませてくれたらなあ…とか名前のところで
毎回、「なんて読むんだっけ?」と躓いているのがすでにおばちゃん????


似たような題名ですが、先に読んだ『「上から目線」の構造』が
反応の仕方が全く違う「ワンピース世代」に手を焼いている「ガンダム世代」
に対しての指南書or取説的な内容だった(という事が、今回の本を読んだら余計にはっきり明確になった)のに対してこちらは「目線」と言う言葉がいつの頃から使われ始めて…と言った部分にまでさかのぼっての本。

確かに、言われてみれば「目線」と言う言葉、私の学生時代には無かったと思う。「視線」は有って歌詞にでも「あなたの視線を感じるわ~」と言ったフレーズでよく使われていた。
それが「目線」と言う語彙を意識し始めたのが写真を一緒にとった後
「この子、いつでも写真 目線ね~」と少しイヤミが入った感じで使われ始め写真家がモデルに「はい、目線こっちね~」と言っている場面を見るようになってからかな?とはいえ、その映像等を見るにつれ
「目線かあ…なんか、違和感あるよな~」と感じていたのも事実。
同様の違和感は「生足」「素髪」にも通じるんだけどね。
ま、それはさておき、こちらではそう言った「目線」と言う語彙がどんどん使われだした歴史的背景や政治家の発言、はては捨て猫問題、クラッシックに対する感情など多岐にわたって「上から目線である」と展開。
ぶっちゃけそれは「目線」ではなく

会話における「テンプレート」の崩壊
言いたかったのでは?

例えば「熟年、秘湯の旅」に参加する者は今までなら「夫婦」であって
お互いに似たような立場で「孫は?」的な質問をしても問題なかったのが
今では「夫婦ではない二人組」であったり「孫どころか子供さえも…」
と言うパターンもあり得る。
結婚式も今までなら親戚と同席しても「めでたい!」で済んでいたことが
「バツイチだし…」「できちゃっただし…」と一概に「同じ感覚の共有」とは言えなくなっている。
雑談が成立するための共通の価値観は見事に消滅したと言える。
それは人々が「話しベタ」になったからでも「殺伐とした悪い社会」に
なったからでもない。世の中にあると信じられた共通の価値観が消滅したことによって、以前は使えていた「当たり障りのない話題」が無効になってしまったのだ。
正確に言えば無効になったのは話題だけではない。
話題に伴う「会話の形式」が無効になってしまったのだ。


という事を前提に展開していけば、ガンダム世代とワンピース世代の感覚が違うのも理解できるし、モンスターペアレンツの登場も理解できる。
今までなら「先生」と絶対的権威だった存在でテンプレで会話が成立していたのが通じない。むしろ親にしたら「どうして理解できないの!!!!!!怒」と油に火を注ぐ結果となっている。
かくして
上司の方は昔から 使っていた「部下への注意・指導」のつもりで叱責したとしても、受け取る部下の方が「パワハラ」であるとか「モラハラ」だと思っていたらメッセージが伝わらないどころか、深刻なコミュニケーション不全が起きてしまう。
それ以前に、人間関係が悪化するだろう。


ここに横たわっているのは
お互いの価値観が正面衝突していると思うと、
そこで勝ち負けの話にするか、あるいは対立から逃げるしか解決策は
無いように思える。
だが、お互いの視線が交差しているという事に気づいて、そのことのバカバカしさ、滑稽さを感じることで無意味な対立から抜け出していくことは可能ではないか?


また、日本語と英語の違いに
英語の場合は話し手と聞き手の間に上下関係は薄いからだ。
聞き手は基本的にいつでも話し手にとって代わってよい。
ところが日本語の場合は「話し手」と「聞き手」の中では明らかな上下の関係がある。

「あいづち」を使って相手の発言権を確認し、関係を良好に保ちながら会話を薦めるという事は、ある程度の共通な価値観が前提としてあるという条件が必要である。その前提条件が崩れた時に何が起きるのだろうか?


何が起きったって??
答え「不満炸裂!!」ですがな。笑
私が英語式な会話の進め方をするのに対して、薬剤師のオバハンはどこまでも
自己中心的に「私が会話の主導権を持つ!」と暗に主張しまくった結果があれだから。
それにしてもまさか会話に「上下関係」があるとはなあ…
会話のキャッチボールって「嘘」なん???

で、まとめ的に
「上から目線」の正体とは? P195
1、話し手と聞き手の役割分担
2、会話の形式がもたらす上下関係
3、社会的地位、人間関係による上下関係
この三つの要素が複雑に絡まり合って「その場その場の上下関係」を
生み出していく。

だが、会話におけるその瞬間瞬間で、上下関係に関する双方の見解の不一致があり、それが「相手の敬語表現への反発」となり、結果的に相互に敬意が伝わらずコミュニケーションの枠組みが破たんする。
この「敬意のエラー」こそ「上から目線」のメカニズムの深層で起きている
現象なのである。


と、なんかわかるようでち~~っともわからん。
適当に付箋を貼って読んだんだけどねえ…
まるで、教科書かよ?って感じ。
「上から目線」について書いている人がどっちも東大卒なんで、
頭いい人は、小難しい事ばっかり言いたがる。
もっとスッキリ、バカにわかるように書いてくれ!

凡人には読んでいてもイマイチ論点がはっきりしなかった。

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